The DIDO& ÆNEAS Project
”ディドとエネアス”
演出ノート

Manfredi Rutelli
マンフレディ・ルテッリ

   
Manfredi Rutelli
 
   
2002年 第27回モンテプルチアーノ国際芸術祭 総合プログラムより
     

《考古学はSFだ》

以前、フェリーニについての記事を読んでいたとき、彼のひとつの発言が僕に深いショックを与えた。それは《考古学はSF(空想科学小説)だ》というフレーズだ。
 
あれからから僕は自分が仕事にアプローチするのにこの言葉を忘れてはならないと思っている。つまり過去の作品と向き合うときには、今までの伝統知識や現在に至るまでに付け加えられてきた改訂などを丹念に調べ上げて検討し再構築する作業を、作品本来の真意を見失うことなく、かつファンタジーを持ってやらねばならぬと心がけているのだ。
 
《ディドとエネアス》の上演を準備するのは単純なことではなかった。それどころか 「シンプル」という言葉は劇場では「一番難しい」ことを同時に意味する。
このようにシンプルで完璧で、豊富な語彙、はっきりとした個性を持つ作品を前にしたとき、我々はこれでもかというほど作品に忠実であることが求められる。
この強い個性は過度の感傷や安っぽいロマンティシズムからは程遠く、また現実の世界とかけ離れているにも拘らず、普遍の劇場技法に基づいた独自の世界、深遠なバロック音楽のひらめき、かつ控えめで、また崇高な優雅さをも今日まで変わらず持ち続けてきたということに由来する。

これは神話なのだ。この(外見ではそう見える)単純さがこの作品を神話化している。
オリジナルでは不確かだった構造に、上演を重ねた年月の中でいろいろな要素が付け加えられ調合されて、このオペラのもつ神話性は出来上がっていったのだ。

この作品は宮廷のためでも劇場の依頼によるものでもない、高い身分の上品なお嬢さんたちのための女子寄宿学校の学芸会のために書かれたものであり、その後10年経っても再演されることすらなかったし、パーセルが亡くなったあとも〜例えばシェークスピアの劇への挿入音楽として使われるようなことも〜なかった。

この作品の持つそのようなルーツこそが我々の試みの原点なのだ:女性のみの出演者を選んだというのもそうだし、この作品からシェークスピア劇の演出技法を連想していただくことができればそれは僕にとって望外の幸せだ。
 
しかしこのオペラが神話化された作品である一方、元はナホム伝から採られた完璧で悲劇的なメロドラマ「Infelix Dido virgiliana」であり、史実として今日まで長く語り継がれてきた魅力的な愛の物語なのだ。
オペラ台本にするにあたり、言語学上の視点を含めて原作とのバランスをとりながらも、この寓話の中の出来事にファンタジーやコミカルさが注入されていった:結果この物語は悪魔的で、英国的な実にアングロサクソンらしいおとぎ話に仕上がっている。

しかしこのオペラを上演するとき、そこにはこの作品に刻み込まれた見る人々の感情を大きく揺り動かす要素が存在する。
ディドは、勇者としての名声〜これはすべての男たちが持ちうる戦いには挑まねばならぬという本能とも言えるのだが〜にとりつかれた彼女の不実な恋人エネアスの裏切りにあい、哀れにも捨てられ、怒りに震えるかわりに自分の中にすべての想いを閉じ込め、そして彼を許しながら自害してしまう。
この死の時、美しく咲き誇る花がしおれるとき、彼女はただ、せめて自分が存在していたことを覚えておいてほしいとだけ願うのだ。ここが大事なのだ。
記憶にとどめてほしいという切迫したこの願い:しかしそれは自分のすべてを永遠に記憶して欲しいと望んでいるのではない、ただひとつ、ひとつのことだけ。唯一の望み。それは愛。エネアスへの永遠の愛。
そしてその一瞬からこの物語は神話となり、芸術作品となった。たとえそれが死の時を描いているものであっても。
その生と死の記憶が、墓守たちに、たとえ自ら命を絶った者のためであっても墓を掘ってやるという行為を納得させるのだ。

芸術作品は生きるということとは切り離せないし、記憶されるということが必要だ。
記憶されることは例えば王宮、あるいは博物館、現代博物館のショップ、芝生に置かれた彫像、伝統をあざ笑うような現代彫刻のようなものすべてに必要なことなのだという思いを僕に抱かせる。
そしてそれは人間世界の本質そのものなのだ。
いかなる人種であろうと、人間とは心に存在する熱い想いと相対して生きているのだ。

これが僕のプロジェクトだ、これが僕の提案だ。
僕は伝統に新たな息吹を与え、今現在のディドと向き合い、彼女に人生を経験させた。
これが僕にとってオリジナルへの忠誠なのだ。
分析し再構築するという作業は、現実にはありえないと提示することではない、もしかしてこれは実際にも起こりうることなのだと思ってもらえる新しい可能性を探るということなのだ。

                           
演出家 マンフレディ ルテッリ

訳:河野典子